ほっこりと暖かい春の陽気に誘われて、天野街道を歩いてきました。
天野街道とは、かつての河内国と和泉国とを分ける陶器山丘陵の尾根に沿って伸びる旧街道の名称で、和泉地方に数多くの足跡を残した僧、行基が創建した女人高野で知られる天野山金剛寺への参詣道として造られたものです。
また、この道はかつて狭山に住む人たちが熊野詣に向かう道としても利用されたといわれており、平安時代の後期にはすでに整備されていたそうです。ですから、その歴史は高野山への参詣道として利用されていた、西高野街道よりも古いといわれています。
この日は、堺市の岩室からスタートして、今熊で右へとルートをとって西高野街道と別れ、天野街道に入りました。丘陵地の雑木林を縫うように造られた道は、程よい広さで木漏れ日が差し、気持ちよく歩けます。おりしも薄紫のミツバツツジが満開で、雑木林に彩りを添えていました。
道はハイキングやジョギングコースとして整備されており、途中には休憩所やトイレなどもあるので、家族連れの姿も多く見かけました。
岩室から天野山まで走破すると、17、18kmはあるので、この日は狭山の西山霊園まで歩いてUターンしましたが、残りの道は、また次回に歩いてみようと思っています。後半の道の途中には、そば道場もあるので楽しみです。
天野街道とは、かつての河内国と和泉国とを分ける陶器山丘陵の尾根に沿って伸びる旧街道の名称で、和泉地方に数多くの足跡を残した僧、行基が創建した女人高野で知られる天野山金剛寺への参詣道として造られたものです。
また、この道はかつて狭山に住む人たちが熊野詣に向かう道としても利用されたといわれており、平安時代の後期にはすでに整備されていたそうです。ですから、その歴史は高野山への参詣道として利用されていた、西高野街道よりも古いといわれています。
この日は、堺市の岩室からスタートして、今熊で右へとルートをとって西高野街道と別れ、天野街道に入りました。丘陵地の雑木林を縫うように造られた道は、程よい広さで木漏れ日が差し、気持ちよく歩けます。おりしも薄紫のミツバツツジが満開で、雑木林に彩りを添えていました。
道はハイキングやジョギングコースとして整備されており、途中には休憩所やトイレなどもあるので、家族連れの姿も多く見かけました。
岩室から天野山まで走破すると、17、18kmはあるので、この日は狭山の西山霊園まで歩いてUターンしましたが、残りの道は、また次回に歩いてみようと思っています。後半の道の途中には、そば道場もあるので楽しみです。