50年前まではこんな民家ばかりでした
本家には若い家族が住み家の一切を養っていました
本家には座敷や神棚、屋根裏、土間などそれぞれに大きな作りとなっていました。
井戸です。ちょっとした大きな家庭にはありました。50歳以上の方懐かしいでしょう。
寝間とリビングだけの隠居。子供がい大きくなるとおじいさんは隠居暮らしになります
ウシノマヤです。
井戸の後にあるカメは小さいのはハンドガメと行って水溜め。大きいのは土葬の際に人を埋葬するのに使いました。
風呂は外にありました。屋内はクドがあって火の始末も風呂まで回らなかったのかも・・・。
水溜(ハンドガメ)と呼んでいました。
おじいさんは縄をないおばあさんは繕いもの
「風土記の丘」の横に横穴式円墳の掛木古墳があります。大きい方です。
昔の豪族の墓。壱岐には150ヶ位の古墳があります。
風土記の丘
私が小さかったころ、小学校に入る前までの暮らしは、この「風土記の丘」で取ってきた写真のように、本家(ホンケ)、隠居(インキョ)、物置(モノヲキ)、牛の間屋(ウシノマヤ)からなっていて、山の後ろは西風と季節風をしのげるように大木の林となっていました。
私の小さいころの裏山は、直径1M近い椎の木が数本あり、入口付近にはしっかりとしたタブの木がありました。
庭は、小豆を広げたり、天草を干したり、米を脱穀したりするために、かなり平坦で硬い地盤だったのを覚えています。外の草取りは兄弟で区画して競争してとった記憶があります。
隠居の横には井戸があって(今もその名残はありますし水も沸き出でています)
簡易的な柵があって、つるべと屋根が一体化しており、年中通じて同じ水温が保たれてる天然の冷蔵庫のようなところでした。夏には西瓜を冷やして木陰においたバンコ(板子)で楽しく頂いた記憶があります。
夜は暗いので危ないから、よく誰かが怖い話をして井戸には近づかないようにしてくれたものです。
それを兄貴が鉛筆で描写したものだから、本当に怖かった。(今でも書けますよ)
番町皿屋敷風でしたね。
おじいさんはとっても器用な人でした。おもちゃはなんでも作ってくれました。
竹馬、草スキー、凧、竹トンボ。
兄と私が何かものを作るときはいつでもおじいさんのところでやっていました。
ウシノマヤには4頭の牛がおり、それぞれに名前がつけてありました。畑を耕したり、重いものを運んだりしていました。夜、おやじとお袋が牛を引いて綿打ちに行っていたのも覚えてます。
牛にはハミ(食み)と言って藁とぬかを混ぜたものをやっていたと思います。
ぬかは渋柿の渋抜きに使ったり、たくあんを作るのに使ったり。田舎で取れるもので捨てているものってなのもなかったように思います。
厠(トイレ)は物置の端か離れの奥になっていて、夜行くのは大変だったんでしょうね。周りに匂い取りの南天や水仙が植えられていたのも利にかなっていたんでしょうね。
そして五右衛門風呂。大人が一人体をかがめて入るほどのものだったのでしょう。子供の頃だったから大きく感じましたが。体が直接釜に触れないようにし木板を踏んで入ったものです。必ず家の外にあって、子供のころはキャーキャー言いながら入っていたようでした。空を仰ぐと星がつかめそうなぐらいそばまで来ているようで、長い時間空を見るのが好きでした。
雨の日は記憶にありません。
一年生のころかな・・・家を建て替えるので、仮住まいを作ったり牛を売ったり、いろいろあって、急にモダンな感じになりました。金属のたらいやざるはこのころプラスチックになり、洗濯板がなくなって洗濯機(二層式)が登場。
テレビも白黒で4本足でしたがカラーになりました。(母親がこのころ民宿を始めたんです。)
昔といえどついこの前なんですよね。
道は広くなり、コロナやサニーがたくさん走りだし、高度経済成長でいまやこのような家屋も風土記となり歴史の一部になってしまいました。
いい時代を少しでも覚えているのでなんとなく幸せです。