自分の親父も今や83歳になって、病院で寝たきりに。原爆のとき長崎にいたとかで被爆者手帳を持っている。
それで医療費はかかっていないが、その親父は今はよわよわしい。三男である親父の長男で私の叔父にあたる人は戦時中亡くなった。自分たちの親に当たる人たちは殆ど戦争体験者であって、悲惨な一時期を送っている。
自分が子供のころは高度経済成長などとして岩戸景気と呼ばれた。親父たちのころは戦争景気。特に日本の造船は忙しかった。
日本人の独自の技術で作るのも早く正確にできており、間違いのない物づくりは日本人の世界に誇れる文化かもしれない。
戦争で超大型の戦艦をいくつも作ったのが呉工廠だ。
親父は三菱の長崎造船所にいたが、このころの戦艦や潜水艦はこの呉で作られていた。
重工業と名のつく巨大会社
川崎、三菱、石川島等の会社が国の名によって動かされた。しかし当時はおそらくこんな戦艦を作れることが設計者も製造者も鉄を造る製鉄会社も銀行も日本人としての自慢を誇示したかったに違いない。当時は負けることが無かったのだから。
確かに戦艦は安芸、長門、赤城、八重山、むつ、・・・たくさんあってどれもが勇壮で見た目に威厳があるが、よくできすぎていて、見栄が優先しているように見える。・・・・いまとなって思うことなのだが、もし相手のすごさを知っていたら、けして戦争などもしなかっただろうし、したとしても隠密な戦艦や戦闘機になっていただろう。
設計思想が違うのか、戦闘機、いわゆる「零戦」はよくできていると思った。無駄が一つもない。コストも安くできている。量産設計にもなっている。かといって人が量産できるわけじゃないが戦闘機もろとも向かっていった事実がある。
今度の選挙で自民党が圧勝した。安部内閣が始まる。今度は2度目になる。敗戦が色濃くなったころ政治家になったのが岸信介。安部晋三氏の大祖父にあたり、佐藤栄作氏の兄にあたる。佐藤栄作氏はノーベル平和賞を頂いている。兄の岸信介氏はA級戦犯扱いだった。後に解けて首相になり、私が生まれる頃日米安保が確立化する。そして平和な時代が続く。
呉工廠の跡地に「大和ミュージアム」ができて、美しい女性のコンシェルジュがいて飾りつくした館内の展示物は見事なものばかりだった。けれど、気持ちは複雑だった。
呉で働いて、国のために働いて、素晴らしい技術を磨いて、レベルの高いものを作って、呉から西の空を見上げた時はB29が落とした原子爆弾のオレンジ色の雲だった。
恐ろしい原子力による核の力だった。
長崎も三日遅れて投下された。
こんなのわかっていたら、おそらくしなかった戦争。空襲で壊滅状態にって追い打ちをかけて受けた仕打ち・・・に相当するだけのことを当時の内閣はやってきたんだ。
今原発が必要か不要か国民の課題としてあげられている。何かあったら危ないのだけれど、何も起きなければすごいエネルギーである。・・・・・生産と破壊を繰り返して人は生きている。
早く代替エネルギーが表れて平和な時代が続きますように・・・。
館内でしばらく立ち止まってこんなことを考えていました。
それで医療費はかかっていないが、その親父は今はよわよわしい。三男である親父の長男で私の叔父にあたる人は戦時中亡くなった。自分たちの親に当たる人たちは殆ど戦争体験者であって、悲惨な一時期を送っている。
自分が子供のころは高度経済成長などとして岩戸景気と呼ばれた。親父たちのころは戦争景気。特に日本の造船は忙しかった。
日本人の独自の技術で作るのも早く正確にできており、間違いのない物づくりは日本人の世界に誇れる文化かもしれない。
戦争で超大型の戦艦をいくつも作ったのが呉工廠だ。
親父は三菱の長崎造船所にいたが、このころの戦艦や潜水艦はこの呉で作られていた。
重工業と名のつく巨大会社
川崎、三菱、石川島等の会社が国の名によって動かされた。しかし当時はおそらくこんな戦艦を作れることが設計者も製造者も鉄を造る製鉄会社も銀行も日本人としての自慢を誇示したかったに違いない。当時は負けることが無かったのだから。
確かに戦艦は安芸、長門、赤城、八重山、むつ、・・・たくさんあってどれもが勇壮で見た目に威厳があるが、よくできすぎていて、見栄が優先しているように見える。・・・・いまとなって思うことなのだが、もし相手のすごさを知っていたら、けして戦争などもしなかっただろうし、したとしても隠密な戦艦や戦闘機になっていただろう。
設計思想が違うのか、戦闘機、いわゆる「零戦」はよくできていると思った。無駄が一つもない。コストも安くできている。量産設計にもなっている。かといって人が量産できるわけじゃないが戦闘機もろとも向かっていった事実がある。
今度の選挙で自民党が圧勝した。安部内閣が始まる。今度は2度目になる。敗戦が色濃くなったころ政治家になったのが岸信介。安部晋三氏の大祖父にあたり、佐藤栄作氏の兄にあたる。佐藤栄作氏はノーベル平和賞を頂いている。兄の岸信介氏はA級戦犯扱いだった。後に解けて首相になり、私が生まれる頃日米安保が確立化する。そして平和な時代が続く。
呉工廠の跡地に「大和ミュージアム」ができて、美しい女性のコンシェルジュがいて飾りつくした館内の展示物は見事なものばかりだった。けれど、気持ちは複雑だった。
呉で働いて、国のために働いて、素晴らしい技術を磨いて、レベルの高いものを作って、呉から西の空を見上げた時はB29が落とした原子爆弾のオレンジ色の雲だった。
恐ろしい原子力による核の力だった。
長崎も三日遅れて投下された。
こんなのわかっていたら、おそらくしなかった戦争。空襲で壊滅状態にって追い打ちをかけて受けた仕打ち・・・に相当するだけのことを当時の内閣はやってきたんだ。
今原発が必要か不要か国民の課題としてあげられている。何かあったら危ないのだけれど、何も起きなければすごいエネルギーである。・・・・・生産と破壊を繰り返して人は生きている。
早く代替エネルギーが表れて平和な時代が続きますように・・・。
館内でしばらく立ち止まってこんなことを考えていました。