茨城県南西部の町。高校野球ではかなり有名ですね。
仕事でこの近くを通っているとひときわ目立つ色の淡いお城に出くわしました。
豊田城というそうです。町の人には悪いが見た瞬間から何となく違和感があって、つい気になって近づいてみました。
豊田城と言いましてもともとの歴史はあるそうで調べてみました。このお城別名は「地域交流センター」と言って集会所のようになっています。
ここからは調べ物によります。
天慶の乱により、天慶3年(940)平将門が生涯を閉じてから常総の地は平貞盛・藤原秀郷の領地となり、貞盛の弟繁盛の支配し、四代後の常陸大掾平重幹の第三子政幹が赤須四郎と名乗り下総豊田郷に住した。
赤須四郎は、戦功によって後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ、神旗(蟠龍旗)と豊田・岡田・猿島の三郡を下賜された。これにより名を豊田四郎将基と改め、若宮戸に居を構え、常総の山野に武威を張った。
以来二十代五百二十余年の長い間、中世・戦国時代にかけて、この地は豊田氏の本拠地となった。その時のお城は小貝川の河川敷きあたりにあったと思われますが今は完全に滅びてありません。
豊田氏が下妻の多賀谷氏に滅ぼされたあと、石下地方は多賀谷氏六万石の領地となりました。しかし、慶長6年(1601)に多賀谷氏が改易となり、慶長8年(1603)江戸幕府成立後、
当地は幕府の直轄領あるいは旗本の知行地に組み入れられた。
そういう平安時代末期から戦国時代を貫いたお城の由緒はあるのですが、なんとなく無理やりつくった感があります。(すみません)
「豊田城(地域交流センター)」。当時は、このような天守閣(高さ48.5m)ではなく、カヤ葺きで小貝川の水を要塞としたものであろうと言われていますのでやっぱりなんとなく存在しないものを作った感がありそうです。
そこに銅像がありまして、早速調べると下記のように記してありました。
長塚節ながつかたかし
明治12年(1879年)、岡田郡国生村の豪農の家に生まれた。茨城県尋常中学校に入学したが4年進級後に脳衰弱のために退学。療養に過ごした郷里の自然に親しみつつ、文学への関心を高めていった。
19歳の時に正岡子規に共感、21歳で子規を直接訪ね、入門。
『アララギ』の創刊に携わった。子規の没後もその写生主義を継承した作風を発展させた。また散文の製作もてがけ、写生文を筆頭に数々の小説を掲載。農民小説のさきがけの一人として知られ、写実的描写が見事である。明治45年は結核を発病、病に苦しみ九州帝大にて没した。享年37。正岡子規の正当な後継者であると言われている。
ほんのちょっとの間でたくさん勉強になりました。
山口さん いしげの北20kmの旧下館市に14年前に住んでいました。懐かしいいしげのお城の写真ありがとうございます。このお城の近くにお菓子の「うまか棒」を作っているリスカの工場があります。遠くまで行かれましたね。お疲れ様でした。
井上様、こんばんは。
うまか棒の看板を見ましたよ。買って帰ればよかったです。となりで〇〇饅頭・・・・たしか下館饅頭だった小貝饅頭だったか??よく覚えていませんが、そうか下館やったんやなっと思い出しましたね。
関東平野のほぼ最終地点ですね。ちょいちょい行くんですよ。